中絶について

  • 「中絶は殺人である」との原理主義的な中絶反対論の主張は、(1)胎児にも意識がある以上ヒトと等価な一個の生命であるというものと(2)胎児はヒトと等価ではないが、やがて完全なヒトとなることが見込まれる以上、ヒトと同等に扱われるべきとの主張に大別できる。
  • (1)については、医学的知見の問題なので、ここでは立ち入らない。
  • (2)については、ヒトと同等に保護されるべき「ヒトの可能態」の範囲をどのように確定すべきかが問題となる。胎児までか、受精卵までか、受精前の精子卵子も含むのか。恣意的でない限定の方法は存在するのか。
  • (2)の見解を徹底するならば、ヒト誕生の可能性を阻む行為は全て殺人となるはずである。中絶だけでなく避妊も、避妊だけでなく家族計画も、等しく殺人である。ここまでは原理主義的な中絶反対論者なら同意するかもしれない。しかし話はここでは止まらない。ヒト誕生の可能性を阻む行為が全て殺人であるならば、生殖可能な年齢に達した男女は、生殖不可能な年齢に達するまで、ひたすら生殖行為を続けなければならない。さもなくば、「生まれるはずのヒトの数」が減少することになるからである。
  • 「中絶は(女性又は家庭の)自己決定権の問題である」との中絶容認論の主張は、胎児の生命と自己決定権とを天秤に乗せて比較した場合に、後者が前者に優越するという趣旨の主張ではない
  • 「中絶は自己決定権の問題である」との主張は、「ある規範を(国家や社会を介して)他人に強制せよと主張できるのは、当該規範が無ければ自分に悪影響が及ぶ場合に限られる」という考え方(強いリベラリズム)に基づくものである。
  • この考え方によれば、殺人の禁止を他人に強制できるのは、当該規範が無ければ自分や自分の知り合いが殺されかねないからである。
  • この見解を徹底した場合には、自己決定権の限界を画する根拠が問題となる。たとえば、幼児虐待も自己決定権の枠内となりかねない。