維新八策・現実版

池田信夫氏も書いているように、維新の会が維新八策で掲げる「参議院の廃止」や「首相公選制の導入」は、正攻法ではまず、実現不可能。
現行憲法の盲点を衝くような「奇手」が必要だ。
例えば、次のようにしたらどうだろうか。

これで現行憲法の下で「参議院の廃止」や「首相公選制の導入」が実現できる。
ただ、このままだと最初の公職選挙法改正は現職の参議院議員が強く反対し実現しないだろう。これを解決するには、同じく公職選挙法改正によって衆議院の定数を700人程度まで増やし、現職の参議院議員には衆議院への鞍替えを促すようにすればよい。

最小不幸社会=国民総安楽死政策?

  • 菅直人新総理が新政権の目標として掲げた最小不幸社会。専門用語では「消極的功利主義(Negative Utilitarianism)」と呼ばれる。実はこの立場、一見すると良さそうだが、深く考えるとうまくいかない立場の典型として知られている。
  • まず、文字通り不幸の最小化が目標なら、正しい政策は国民全員(あるいは人類全員)を安楽死させることだ。人がいなくなれば不幸はゼロになり、当然に最小化するからだ。
  • こう書くと「死ぬこと自体が不幸ではないか」と反論する人がいるだろうが、この反論は当たらない。なぜなら人は誰しもいつか必ず死ぬので、「死ぬことによる不幸」の総量は、安楽死政策を実施しても、長期的には何ら変化しないからだ。
  • あるいは、「死んでしまったら、生きていたらできたであろう様々な楽しいことができなくなる。それが不幸だ」という反論もあるかもしれない。だが、このように言う人は、あることを暗黙のうちに前提としている。それは、幸福と不幸が相殺可能ということだ。しかし、幸福と不幸が相殺可能であることを認めてしまったら、不幸の最小化は幸福の最大化と同じことになり、「最小不幸社会」というフレーズには何の新味も無くなる
  • 以上のことはちょっと考えれば、あるいはちょっと調べれば分かるはずだ。にもかかわらず「最小不幸社会」を新政権の目標として全世界に掲げてしまう辺りに、前政権と通じるナイーブさを感じる、と言ったら言い過ぎだろうか。

中途半端な自称リベラル派の主張

  • どうして自称リベラルな人達は、中途半端なことばかり主張するのだろう。外国人参政権とか、夫婦別姓とか。
  • 「国籍」に固有の機能は、「国政への参画」以外にあり得ないし、「苗字」に固有の機能は、「所属する家族の表示」以外にあり得ない
  • 外国人参政権を主張するくらいなら、国籍の廃止を主張すべきだし、夫婦別姓を主張するくらいなら、苗字の廃止を主張すべきだ。
  • 逆に、そこまで主張する覚悟や気概がないなら、おとなしく現状を受け入れるべきだ。
  • カレーのないカレーライスや、冷たくないアイスクリームを要求するようなことをして、言葉の用法を混乱させるのは、いい加減やめにしてもらいたいものだ。

まともな政策の簡単な見分け方

  • まともな政策の簡単な見分け方、それは「基準を問う」こと。
  • 「既得権の打破」を叫ぶ人には、「既得権と正当な権益とをどうやって区別するのか」を問おう。
  • 「官僚主導の打破と政治主導の実現」を叫ぶ人には、「官僚主導と政治主導とはどのような基準で判定されるのか」を問おう。
  • 「無駄な公共事業の撤廃」を叫ぶ人には、「無駄な公共事業と無駄でない公共事業とをどうやって区別するのか」を問おう。
  • これらの問いに答えられないなら、これらの主張は「政策」の名に値しない。単なる人気取りのための「かけ声」だ。
  • 有権者が、政党や候補者に対し、しつこいくらいに「基準を問う」態度を身につけること。これが、日本がポピュリズムから抜け出し、真の民主主義国家に成長するためのカギだと思う。

外交と国益、そして公共的議論の一般性

  • 「日本はもっと外交の場で国益を主張すべきだ」と言う人々がいる。こういう人々は、タカ派政治家の強硬な発言に拍手喝采し、「ああいうことを外交の場で主張してほしい」と願うのである。
  • しかし、外交の場で国益を主張することは、国政の場で選挙区の利益を主張することと同じである。「俺の選挙区に道路を作れ!線路を引け!リニアを通せ!」という国会議員の主張は、国民一般にはエゴとしか映らない。外交の場で国益を強調するのも、同様の下策である。
  • 外交とは、平和や人権、環境保護や貧困削減といった、国際社会のメンバー誰もが同意せざるを得ないような、普遍的・抽象的大義を掲げつつ、実際には自国の国益の実現を目指すというゲームである。だから、巧みな外交においては、自国の国益は主張されない。国民はこのことを了解しておく必要がある。
  • これは実は、外交に限らず、公共的議論全般に妥当することである。公共的議論に参加する者は、自己の個別利害を一般的・抽象的理念に巧みに忍び込ませることが要求される。これは、卑怯でも卑劣でもない。そもそも公共的議論とはそうしたゲームなのである。

責任と原因(はてな匿名ダイアリーから転載)

1 「いじめでは、いじめられる側にも責任がある」

2 「いじめでは、いじめられる側にも原因がある」

このふたつの主張は、頭の悪い人(もっと詳しく言うと、言葉を論理的に使用できず、もっぱら感覚的に使用する人)には、ほとんど同じ主張のように聞こえるらしい。

でも、両者は全く別のことだ。

1は、非常識な主張で、まず人々の賛同を得ることはない。いじめでは、やはりいじめる側に責任がある。いじめられる側はどこまでも被害者で、非難されるべきは加害者だ。そう考えるのが良識ある大人のコンセンサスだ。その結果、1のような主張を公けの場で行うと、四方八方から袋叩きに合う。至極当然だ。

これに対し、2は、当たり前のことを述べているだけだ。いじめを行う人は、いじめる相手をくじ引きで選ぶ訳ではない。性格、体格、学力、その他何らかの属人的な特徴に着目して、いじめる対象をセレクトしているのだ。だから、いじめられる側にも勿論原因がある。責任はないが、原因はある。

責任に対応するのは、非難とか、制裁とか、そういった事柄だ。

原因に対応するのは、再発の予防とか、対策とか、そういった事柄だ。

不幸なことに、両者はしばしば混同される。その結果、次のような困った事態が生じる。

<ケース1:話し手が混同>

事件の原因を分析すべきところで、あたかも被害者にも責任があるかのような発言をして、傷ついた被害者を更に傷つけてしまう。 

<ケース2:聞き手が混同>

話し手は本当は原因の話をしているのに、聞き手が責任の話をしていると勝手に誤解し、話し手を袋叩きにしてしまう。

その結果、話し手は萎縮し、事件の原因や対策に関する建設的な議論が行われなくなる。

<ケース3:話し手も聞き手も混同>

もうぐちゃぐちゃ←いまココ