「既得権」という言葉

  • 「既得権」とは便利な言葉である。この言葉を使うことで、他人を容易に批判できる。
  • しかし、「既得権」と「正当な権益」とを恣意的でない形で区別することは、極めて難しい
  • おそらく、もっとも簡単に思いつく基準は、「自ら苦労して獲得したものが正当な権益、そうでないものが既得権」というものだろう。
  • しかし、この基準に従えば、例えば日本国民であることは明らかに既得権である。日本国籍を持つことによって、社会福祉や政治参加の点で、有利になることが多々あるが、日本国民たる地位は苦労して獲得したものではないからである。
  • また、農協や特定郵便局長会、自治労や放送局といった組織に属する人々は、自らの権益を保持するために日々多大な労力を費やしている。獲得に費やす労力よりも保持に費やす労力を低く評価すべき根拠はあるのだろうか?
  • 結局、「既得権」と「正当な権益」は区別できず、既得権とはレッテル貼り以上のものではないのではないか?

「強いリベラリズム」とマザーテレサ的人道主義、あるいは年越し派遣村

  • 「人は自分が直接知覚し得る事柄についてのみ権利を主張でき、政府による介入を要求できる」という「強いリベラリズムの立場は、マザーテレサ人道主義」と親和性を持つ。
  • マザーテレサ人道主義の思想は、「汝の目の前の人を助けよ」であるが、これは「人は自分が直接知覚し得る事柄についてのみ責任を負う」という立場に他ならず、強いリベラリズムのちょうど裏返しである。両者の背景にあるのは「直接知覚主義」とでも呼ぶべき立場である。
  • 直接知覚主義からは、人は自己の直接知覚の外にある諸問題については、義務を負わない代わりに、権利も主張できない。私は、報道を通じてのみ知っているジンバブエ人民の困窮について、何の救済の義務も負わない。他方、中学生でも中学生の親でもない私は、中学校における歴史教育の在り方について、何の発言権も持たない。
  • マザーテレサ人道主義は、ある意味で、差別主義である。目の前にいる人を、そうでない人よりも優遇する立場だからである。しかしそれは、強いリベラリズムとセットで、直接知覚主義として主張される場合には、一つの首尾一貫した立場である。
  • 年越し派遣村の活動が偽善的に感じられるのは池田信夫氏が言うように、全国250万人の失業者のうち日比谷公園の500人のみを特別扱いしているから、ではない。
  • 年越し派遣村の活動が偽善的に映るとすれば、それは、「目の前の500人を救おう」というマザーテレサ人道主義の看板を掲げつつ、実際にはメディアを通じた政治的アピールを目的としているからである。直接知覚主義の立場を一貫させるなら、テレビの向こうの他人の困窮について、視聴者は何の義務も負わないはずである。そして、義務を負わないだけでなく、政府による何らかの介入を要求することもできない。直接知覚主義の立場からは、自己の身に影響の及ばない事柄については、ただ感想を述べることができるだけである。「可哀そうになぁ」と。

性的自己決定の自由への規制

  • 性的自己決定の自由への規制は現在様々なものがあるが、リベラルな社会では、次の行為を規制すれば足りる。
  • 婚姻関係にない者同士が、避妊具(コンドーム)を使用せずに性行為を行うこと。
  • ただし、同性結婚が認められるていることが前提である。

国籍法改正問題と憲法典の欠陥、そして憲法学の貧困

  • 国籍法改正問題の根底には、憲法典のある重大な欠陥が存在する。先の違憲判決は、この欠陥を糊塗するため法学ギルドが重ねてきた屁理屈の集大成である。国籍法改正問題の本質を理解するためには、この屁理屈を喝破することから始めなければならない。
  • すべての法解釈は法文から始まる。憲法解釈も例外ではない。そこで、問題となった憲法の条文、すなわち10条と14条を観察しよう。

第三章 国民の権利及び義務
第十条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

  • 形式化すると、10条と14条は、次のような関係に立つ。

すべてのXについて、XはPされない(14条)。
Xたる要件はQである(10条)。

  • ここで14条は、X=Pの場合に「違憲」、X≠Pの場合に「合憲」という値を取る関数だと理解できる。そして10条は、Xの定義域を定めるものである。とすれば、Qをどのように定めるかについて、14条の規制が働かないのは自明のことである。14条は、10条(によって委任された国籍法)で定められた日本国民について、差別されないことを定めているのであって、日本国民の範囲をどのように定めるかは14条の関知するところではないのである。
  • およそ論理的であろうとする限り、以上の結論は不可避と思われる。しかしここで法律ギルドは軽々と論理を超越するのである。
  • 国籍法を違憲と断じた最高裁は、次のように判示した。

憲法14条1項は,法の下の平等を定めており,この規定は,事柄の性質に即応した合理的な根拠に基づくものでない限り,法的な差別的取扱いを禁止する趣旨であると解すべきことは,当裁判所の判例とするところである<略>
憲法10条は,「日本国民たる要件は,法律でこれを定める。」と規定し,これを受けて,国籍法は,日本国籍得喪に関する要件を規定している<略>このようにして定められた日本国籍の取得に関する法律の要件によって生じた区別が,合理的理由のない差別的取扱いとなるときは,憲法14条1項違反の問題を生ずることはいうまでもない。
【国籍法違憲判決全文】
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kokusekihouiekennzennbunn.htm

  • 最高裁判決が10条は全文引用しつつも14条の文言は全く引用していないことに注目されたい。恣意的な解釈をしていることが露見するのを恐れる姑息な心理が、表層か深層かは知らないが、判決文の起草者に働いたのだろう。
  • 判決の背景にあるのは、憲法上の権利享有主体に関する「性質説」と呼ばれるドグマである。このドグマによれば、法文に「国民は」と明記されている場合であっても、「事案の性質に応じて」憲法の権利規定は自在に拡張適用される。その結果、外国人にも参政権が認められ得るとか、国籍法の規定の定め方が平等原則違反であるとかいった、倒錯した結論が導かれるのである。
  • 国籍法を巡る議論や、いわゆる「外国人の人権」を巡る議論の混乱の背景には、すべてこの「性質説」というドグマがある。
  • このようなドグマは法解釈としては極めて不自然なものである。憲法第三章は明確に「『国民の』権利及び義務」と定めている。しかも、このような解釈を前提とするなら、「日本国民」という範疇自体が無意味化する。権利享有主体としての機能を奪われた「日本国民」概念に如何なる意味があろうか?
  • 性質説がドグマの名にふさわしいのは、それが超制定法的観点から主張されているためである。憲法典の規定を虚心に眺める限り、このような結論はおそよ導けない。
  • 性質説の解釈論としての不自然さは、自衛隊合憲論の不自然さに匹敵する。いずれも、憲法典の欠陥を糊塗するための法律ギルドの屁理屈である。
  • 嘘も100遍唱えれば真実となり、屁理屈も50年唱えれば「自明の理」に昇華する。いまや法律ギルドの構成員は自らのドグマの恣意性を意識することすらない。

憲法第10条は「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」とありますが,そのことは,この「法律」が憲法第14条に反する差別的なものであってもよいということを意味していません。法律を作る国会議員が,そのような憲法論の基礎の部分を理解されていないようでは困ってしまいます。
【むしろ,自民党が心配】
http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2008/11/post-8c0c.html

  • 他方、「国民」を名宛人とした権利規定は「国民」にしか適用されないという、憲法典の文言に即した当然の解釈は、「文言説」という実に奇妙なレッテルを張られ、排斥されている。
  • 「性質説」ドグマの「論拠」として持ち出されるのは、「自然権思想」とか「人権の前国家性」といった、一種の「信仰」である。
  • これらの信仰の当否をここで論じようとは思わない。信仰は証明も反証もできないからである。
  • しかし、わずかでも論理性への感覚を持っている人であるならば、「国籍の取得」を要求することの根拠として「人権の前国家性」を持ち出すことの倒錯には気づかずにいられないはずである。
  • 私は、性質説を破棄して文言説を採用せよと主張しているのではない。文言説には文言説の問題がある。
  • 権利規定の定義域を無限定で国籍法に委任している現行憲法典の下で文言説を採用すれば、国籍法の規定次第で如何様にでも憲法上の権利の適用範囲を限定できてしまう。これはこれで由々しき問題である。
  • つまり、憲法典には欠陥があるのだ。本来、国民と統治機構との権利関係を定める憲法において、誰が国民かは下位規範に白紙委任してよい問題ではない。憲法典自身が規定しなければならない問題である。細部については法律に委ねるとしても、国籍の基本的要件は憲法典に明記されていなければならないのである。
  • これは当たり前すぎるくらい当たり前のことだ。
  • 現行憲法典は、かくも根本的な部分で穴だらけなのだ。
  • 法律ギルドの構成員は決して憲法典の欠陥を認めようとはしないだろう。聖典の無謬性こそ自らの権威の源泉だからだ。あらゆる屁理屈を総動員して護教に努めようとするはずである。
  • しかし、私たち国民は騙されてはならない。誤った憲法を正すことは主権者の当然の権利であり、義務でさえある。私たちは、理解ある選良達とともに、欠陥憲法の改正にこそ努めるべきである。

ネット右翼とネット左翼

  • ネット右翼ネット左翼の対立は、政治的立場の対立である以上に、思考様式の対立である。簡単に定式化するなら、ネット右翼とは、「主体」に着目して議論する人たちであり、ネット左翼とは、「理念」に着目して議論する人たちである。
  • ネット右翼の関心は、もっぱら「誰が誰を」である。ここで「誰」に入るのは、日本、中国、韓国といった国家であったり、朝日、読売、産経、毎日といった新聞社であったり、自民党民主党社民党といった政党であったり、あるいは麻生太郎古賀誠小沢一郎といった個々の政治家であったりする。ともかく世の中には「敵」と「味方」がいて、「あいつはどちらの陣営に付いているのか」が真に切実な唯一の問題なのである。
  • 他方、ネット左翼の関心は、「平和」「人権」「平等」「福祉」「正義」といった抽象理念である。社会のさまざまな政治的出来事の当否は、自己が奉じる抽象理念に適合するかどうかを基準に判断される。自己が奉じる抽象理念の重要性を他人に知らしめるのが彼らの言論活動の目標である。
  • ネット左翼の側からすると、ネット右翼は、抽象理念の操作能力に欠けた論理弱者に見える。彼らが好んで使う「反日」とか「媚中」といった非一般的な熟語は、救いがたく無内容で、何事も党派的にしか捉えることのできない彼らの単純思考ぶりを象徴するもののように思える。
  • 他方、ネット右翼の側からすると、ネット左翼は、自己の党派性を抽象理念のベールに隠蔽した卑怯者に思える。あるいは、社会の現実よりも自己の奉じる抽象理念を優先する言霊信仰者に思える。

天皇とエンペラー

  • 明治維新から一貫して、天皇の英訳はEmperorである。しかし、この訳語はもはや時代錯誤であり、外国人に誤解を与えるものであるから、早急に改めるべきである。
  • 19世紀末の国際情勢に照らせば、政府が天皇をEmperorと訳したことには合理性があった。当時はイギリスもフランスもドイツもロシアもいずれもEmperorを戴いていたからである。対外的対等性を標榜するため、「我が国にもEmperorあり」と主張するのは、むしろ自然なことであった。
  • しかし、21世紀の今日においてなお、日本にはEmperorが存在すると称することは、歴史的経緯を知らない海外の一般人に極めて奇異な印象を与えている。
  • 一部の日本人(ネット右翼?)は、EmeprorとはKingの「上級バージョン」だと誤解している。その結果、Emperorという語を捨てて天皇をKingと称することは「格下げ」であり、好ましくないと考えているようである。
  • しかし、英語としてのEmperorとKingの違いは質的なものである。両者は一方が他方より偉いという関係ではなく、全然別ものなのだ。
  • Emperorとは文字通り「Empireの支配者」であり、Empireとはアッシリア帝国ローマ帝国のような「複数民族の武力による統合体」である。Emperorという語は、武断的イメージを強く帯びている。英語を母国語とする人がEmpeorという語を聞いて抱く一般的イメージは、甲冑を着て剣を持った軍の統率者である(ちなみに、スターウォーズの「暗黒皇帝」も、原語では単にEmperorである)。日本人の多くが天皇に対して抱く、儀礼的・祭祀的イメージとはおよそかけ離れているのである。
  • 民族統合の象徴として天皇を捉えるのであれば、適切な訳語は明らかにKingである。ただ、日本人が天皇に対して抱く独特の祭祀的イメージがKingでは抜け落ちてしまうというのであれば、端的にTennouと訳すべきであろう。

民法典(債権法)不要論

  • 近時、民法典(債権法)の改正が議論されている。しかし、私見では、債権法の実定法による固定化はそもそも不要であり、かつ有害である。
  • 債権法の一般的ルールは、コモンロー的な判例の蓄積により、徐々に、かつ柔軟に、形成・変更されることが望ましい。他方、政策的配慮が必要な特殊事項については、都度、民主主義的討論を経て、特別法を制定すればよい。
  • 一部の学者の思い込みを実定法に固定化し、今後何十年にも渡って裁判官の現場での正義感覚に優先させることには、いかなる合理性も見出し難い。