ロボトミー

  • ロボトミー手術により数万人の人格を破壊した日本の精神科医たちは、結局、現在に至るまで、何の責任もとっていない。
  • 「当時の精神医学の知見に照らせば、正しい治療だった」との言い草は、何の弁明にもならない。当時の精神医学会が総体として間違っていたにすぎない。間違いを犯した集団の規模が大きくなったところで、間違いが間違いでなくなる訳ではなく、間違いに対する責任が免責される訳でもない。ナチスドイツの諸犯罪は国全体が犯した間違いだが、やはり間違いであり、責任が追及された。
  • ロボトミー手術を行った日本の精神科医、とりわけ当時学会で指導的地位にあった者は、犯罪者以外の何者でもなく、厳正に罰せられるべきである。
  • しかし、彼らの多くは既に故人であろう。故人に刑罰を科すことはできない。せめて、彼らに今日もなお何らかの社会的栄誉が与えられているとすれば、それらはすべて剥奪されねばならない。
  • そしてまた、彼らのような人々のために、地獄が実在してほしいと、私は心から願うのである。

死刑存廃論で見落としがちなこと

  • 「死刑を廃止して死刑囚を何十年も無期懲役にすると、財政負担が増える」という意見があるが、この場合想定されているのは大抵の場合、懲役の平均費用である。
  • しかしこの場合問題にすべきは、懲役の平均費用ではなく、限界費用である。
  • 法務省のホームページ[PDF]によれば、平成19年の全国の刑務所・拘置所の1日平均収容人数は80,684人である。他方、近年増加傾向にある死刑囚の執行人数は、平成18年が4人、平成19年が9人、平成20年で13人である。
  • 既に8万人いる受刑者が数十名程度増えることによる年間の限界費用は、おそらくほとんど無視できる程度のものと推測される。
  • 現在死刑制度を維持するために要している様々な費用(執行施設の維持費等)が死刑を廃止すれば不要になることを考慮すると、純粋に財政負担という点で考えれば、廃止した方がコストは安くつきそうである。

刑法に「聖域」はない

  • 業務上過失致死罪における「業務」とは、「社会生活上の地位に基づき反復継続して行う行為であって、生命身体に危険を生じ得るもの」一般を意味し、いかなる職業もその対象となり得る。
  • もっとも、かつては業務上過失致死罪には事実上の「聖域」があった。典型が医療であり、検察は、医療過誤に対して同罪を適用することについては従来謙抑的であった。
  • しかしながら、近年検察は、このような「聖域」を認めない方針に転換しつつある。医療過誤は勿論のこと、空港管制におけるミスや薬品行政における過ち(薬害エイズ事案)についてまで、同罪の適用対象は拡大の一途をたどっている。
  • だが、依然として刑法の適用されない「聖域」であり続けている分野が一つある。それは司法自身である。誤判によって死刑判決が下され、死刑が執行された場合、関係した裁判官及び検察官は、本来、殺人罪に問われなければならない(そして弁護士は業務上過失致死に問われなければならない)。誤判によって被告人が懲役刑に処された場合も、関係した裁判官及び検察官は、本来、監禁罪に問われるべきである。
  • 裁判手続を経ているというだけで、関係者が当然に免責されると考える根拠は、現行法令上、存在しないのであるから、少なくとも検察内部では、このような事案の立件可能性について真剣な検討が行われなければならない。
  • われわれ国民は、検察審査会制度等を通じて、検察が不当に身内に甘くなることのないよう、厳に監視する必要がある。

中学校における歴史教育について

  • 中学校における歴史教育の在り方について意見を述べる政治的資格を持つのは、中学生の保護者である。彼らこそ中学生の利益を公的に代理する者であり、中学校における歴史教育の在り方について最も直接的な関心を持つのは(中学生自身を除けば)彼らだからである。
  • 彼ら以外の者は、中学校の歴史教育の在り方についての議論を、彼らに任せるべきである。
  • たしかに、中学校における歴史教育の在り方は、社会全体に影響する。中学生に対して「自虐的」な歴史教育が行われれば、彼らが成人した時に「自虐的」歴史観に基づいて発言・行動しやすくなり、社会全体が「自虐的」になる可能性が高まるであろう。同様に、中学生に対して「軍国的」な歴史教育が行われれば、彼らが成人した時に「軍国的」歴史観に基づいて発言・行動しやすくなり、社会全体が「軍国的」になる可能性が高まるであろう。
  • しかし、そのような波及効果は、中学生の保護者同士が議論する際にも当然に考慮されるはずのものである。したがって、このような波及効果の存在は、部外者が議論に介入する根拠とはならない。

中絶について

  • 「中絶は殺人である」との原理主義的な中絶反対論の主張は、(1)胎児にも意識がある以上ヒトと等価な一個の生命であるというものと(2)胎児はヒトと等価ではないが、やがて完全なヒトとなることが見込まれる以上、ヒトと同等に扱われるべきとの主張に大別できる。
  • (1)については、医学的知見の問題なので、ここでは立ち入らない。
  • (2)については、ヒトと同等に保護されるべき「ヒトの可能態」の範囲をどのように確定すべきかが問題となる。胎児までか、受精卵までか、受精前の精子卵子も含むのか。恣意的でない限定の方法は存在するのか。
  • (2)の見解を徹底するならば、ヒト誕生の可能性を阻む行為は全て殺人となるはずである。中絶だけでなく避妊も、避妊だけでなく家族計画も、等しく殺人である。ここまでは原理主義的な中絶反対論者なら同意するかもしれない。しかし話はここでは止まらない。ヒト誕生の可能性を阻む行為が全て殺人であるならば、生殖可能な年齢に達した男女は、生殖不可能な年齢に達するまで、ひたすら生殖行為を続けなければならない。さもなくば、「生まれるはずのヒトの数」が減少することになるからである。
  • 「中絶は(女性又は家庭の)自己決定権の問題である」との中絶容認論の主張は、胎児の生命と自己決定権とを天秤に乗せて比較した場合に、後者が前者に優越するという趣旨の主張ではない
  • 「中絶は自己決定権の問題である」との主張は、「ある規範を(国家や社会を介して)他人に強制せよと主張できるのは、当該規範が無ければ自分に悪影響が及ぶ場合に限られる」という考え方(強いリベラリズム)に基づくものである。
  • この考え方によれば、殺人の禁止を他人に強制できるのは、当該規範が無ければ自分や自分の知り合いが殺されかねないからである。
  • この見解を徹底した場合には、自己決定権の限界を画する根拠が問題となる。たとえば、幼児虐待も自己決定権の枠内となりかねない。

宗教の機能

  • その1:宇宙の擬人化による説明
  • その2:社会倫理の内面からのエンフォースメント
  • その3:真偽不明な命題を真だと信じることによる、プラスの心理効果
  • 現代社会において、1は科学が、2は法と教育(国家)が代替する。
  • 現代社会における宗教の唯一の意義は、3にある。
  • ただし、3も、いわゆる「自己啓発」によって、代替されつつある。

 

善悪二神論の論理的優位性

  • 善悪二神論*1は、神義論*2の問題を生じさせない点で、唯一神*3よりも世界の説明として優れている。
  • 善悪二神論は、自由意志の問題*4についてもすっきりした回答を与える。すなわち、善なる神と悪なる神の勢力の拮抗が世界に複数の選択肢を生み出し、人間はその選択肢の中で自由意志で自らの行動を決定するものと理解できる。
  • 善悪二神論の立場からは、天国や地獄の意義、終末における救済の意味も明快である。天国は善なる神に従ったものが死後行く場であり、地獄は悪なる神に従ったものが死後行く場である。終末は、善なる神の悪なる神に対する最終的な勝利である。
  • こうして考えると、キリスト教神学の論点の多くは、ゾロアスター教の概念を唯一神論に無理やり導入した結果生じた矛盾に由来するものであることが分かる。
  • 善悪二神論の難点は、「なぜ人間は悪なる神ではなく善なる神に従うべきか」を確証できないことである。善悪二神論においては善なる神の勝利は必然ではなく、闘争の結果勝ち取られるべき目標である。もし悪なる神が勝利したらどうなるのか?善なる神に従った人々はみな地獄に落ちてしまうのではないか?

*1:世界は善なる神と悪なる神との抗争の場であるという考え方。ゾロアスター教が典型。

*2:「神が全知全能であるなら、どうして世界に悪があるのか」を説明するための議論。

*3:ここでは、キリスト教ユダヤ教イスラム教のような、世界は全知全能の唯一神が創造し、コントロールするという考え方のこと。なお、唯一神論という言葉は、キリスト教において三位一体説を否定する立場を指すものとして使われることもある。

*4:ここでは、神が予め全てを決定するのであれば、人間には自由な意思は認められないのではないかという問題。