「強いリベラリズム」とマザーテレサ的人道主義、あるいは年越し派遣村

  • 「人は自分が直接知覚し得る事柄についてのみ権利を主張でき、政府による介入を要求できる」という「強いリベラリズムの立場は、マザーテレサ人道主義」と親和性を持つ。
  • マザーテレサ人道主義の思想は、「汝の目の前の人を助けよ」であるが、これは「人は自分が直接知覚し得る事柄についてのみ責任を負う」という立場に他ならず、強いリベラリズムのちょうど裏返しである。両者の背景にあるのは「直接知覚主義」とでも呼ぶべき立場である。
  • 直接知覚主義からは、人は自己の直接知覚の外にある諸問題については、義務を負わない代わりに、権利も主張できない。私は、報道を通じてのみ知っているジンバブエ人民の困窮について、何の救済の義務も負わない。他方、中学生でも中学生の親でもない私は、中学校における歴史教育の在り方について、何の発言権も持たない。
  • マザーテレサ人道主義は、ある意味で、差別主義である。目の前にいる人を、そうでない人よりも優遇する立場だからである。しかしそれは、強いリベラリズムとセットで、直接知覚主義として主張される場合には、一つの首尾一貫した立場である。
  • 年越し派遣村の活動が偽善的に感じられるのは池田信夫氏が言うように、全国250万人の失業者のうち日比谷公園の500人のみを特別扱いしているから、ではない。
  • 年越し派遣村の活動が偽善的に映るとすれば、それは、「目の前の500人を救おう」というマザーテレサ人道主義の看板を掲げつつ、実際にはメディアを通じた政治的アピールを目的としているからである。直接知覚主義の立場を一貫させるなら、テレビの向こうの他人の困窮について、視聴者は何の義務も負わないはずである。そして、義務を負わないだけでなく、政府による何らかの介入を要求することもできない。直接知覚主義の立場からは、自己の身に影響の及ばない事柄については、ただ感想を述べることができるだけである。「可哀そうになぁ」と。